店主紹介

店主紹介
人前に立つことに憧れた
少年時代を経て、料理人の道へ
楽山の店主

店主 佐藤守弘

昭和46年、寿司職人の息子として生まれた私ですが、もともとなりたかったのはお笑い芸人かミュージシャン。
子どもの頃から友達の輪の中で笑いを取ったり、人前で歌うことが好き。
今と同じように、心のどこかで「誰かを喜ばせたい」という気持ちがあったのかもしれません。
高校は進学校へ。
ところが高3になり進路を考えた時、「大学を出てサラリーマンになる」という姿が、どうしても想像できません。
当時憧れていた尾崎豊の影響もあったのでしょう、彼が語る「つまらない大人にはなりたくない」という言葉とともに、ずっと見てきた父親の背中を思い、同じ料理人の道に進むことを決めたのです。
最初の修行先は、岐阜・柳ケ瀬のカウンター付き割烹でした。
父が密かに「料理人になるのなら、ちゃんとした店がいい」と候補にしていた店だったそうです。
バブルという時代もあり、会社の社長さんや役員さん、同伴で利用されるお姉さんなど多くの大人に可愛がってもらいました。
調理学校には行かず、いきなり店に入ったのは珍しかったので年も若く、話すのが好きだったのも重宝された理由かもしれません。
ところが親方は、何でもこなせてしまう、ある意味器用貧乏な私を見て何かを感じ取ったのでしょう。
2年が過ぎた頃、料理の腕を磨くようにと、系列店である老舗料亭に行くよう命ぜられました。
初めての挫折と新たな決意
2件目の店は本格的な会席料理店。
前のようにお客様と話すカウンターもなく、お座敷だけの店で、いわゆる昔気質の職人のもとで、厳しい修行が始まりました。
朝7時から仕込みが始まり、終わるのは明け方の3時…。
とにかく休みなく働く日々が続き、今考えてもその時が一番辛かったと思います。
加えて友達はみんな大学生。やれサークルだコンパだと青春を謳歌する楽し気な様子を見ては、ますます切ない気持ちになったものです。
身体も心もしんどくなったある冬、辞めたいと伝えたのですが、後輩がもうすぐ入るからと言われて我慢するも、4月に入った新入社員が私より先に辞めてしまったことも(苦笑)。
それだけ、当時の料理人の世界というのは厳しかったのだと思います。
精魂も尽きるほど働いていた私に転機が訪れたのは、3年も過ぎたころでしょうか。
店ではいつも賄いを作っていたのですが、大将は好き嫌いの多い方で、「怒られないレシピ」なるものが受け継がれていたほど。
料理の写真
ある日、いつものように賄いを大将に出したところ、突然「佐藤、美味しくなったじゃないか!」と言われました。
好き嫌いが多く、味に厳しい親方からのひと言でした。
その時の嬉しく誇らしい気持ち。自分の作った料理が「美味しい」と言われることは、なんと幸せな気持ちになるものだろう!
そう思った私は改めて「料理人としてやっていこう」と心に誓ったのです。

辛かった修行時代でしたが、続けてこられたのは一緒に働いていた仲間のお陰。また、決して決して安い店ではないのに、社会人になったばかりの友達が来てくれたのも、励みになりました。
何より、舌の肥えた親方に「料理というのは、おいしいものを作ることだ」という当たり前のことを叩き込まれたのが、現在の自分の礎になっていると思います。
父の隣で働きながらも、
試行錯誤の日々
楽山すし割烹のれん
「そろそろ店に戻ってこないか?」という父の言葉に、当初、私は店を継ぐことは考えていませんでした。 しかし「親子で働くことは幸せなことだよ」という周りの声に前向きになり、父と働くことにしました。 後から聞いたところによると、修行先の親方や先輩は「佐藤を早く父親の元に戻さなくては」と思っていたそうです。だからこそあんなに厳しかったのだと、とても感謝しています。 この時から23年。 父が寿司を握り、私が日本料理を担当し、二人で板場に立つことになります。 屋号も新しく「楽山」と改め、父の穴子のにぎりと私のえびしんじょうは、楽山の二枚看板になりました。 さて、寿司職人というと「頑固一徹・厳しい」というイメージがありますが、実は子どもの頃から一度も怒られたことがなく、仕事の上でも「老いては子に従え」を父は体現していました。 もちろん大きなケンカもありませんでした。
また新しいものが好きで、当時珍しかった真空パック機やマイナス50度で素材を保存できる超低温フリーザーなど、最新の調理機器を採用。
ともに働き10年ほど経った時に、マーケティングやSNS集客といったセミナーに行くことを黙認してくれたのも、そのひとつです。
地元で長年やってきたつもりですが、異業種交流会で名刺を出すと「え? どこにあるの?」言われることも多々あり…。
でも、だからこそ開拓の余地があると前向きに捉え、もっと頑張りたいと思いました。
ほぼ毎日更新しているブログも、この頃始めました。
原点に立ち返り、
新しい「楽山」の基礎を築く
こうしてお店のPRに力を入れて数年が経ったある日、私はふと思いました。
「あれ? 自分は料理人じゃないか!」と…。
そう、外に目を向けるあまり、仕事の要である「仕込み」をおざなりにしていたのです。
そこからは、素材や調味料をひとつひとつ掘り下げることに没頭しました。
塩は美味しいのか? だしはこれでいいのか? 海老はゆで時間を変えるとどう変化するのか? 骨と一緒に煮たら美味しくなるのでは? もっと旨い食材はないだろうか…。
父とも相談しながら各地の食材を調べ、食べながら一つひとつ吟味。
例え値段は高くとも「美味しいかどうか」ということだけを追求し、素材を厳選していきました。
そのうち「こないだより旨い!」「若大将、海苔変えた?」という声をいただくようになりました。
寿司に合うワインを探したいと、ワイン教室にも通い始めたのもこの時期です。

酒をつぎ調理をする店主

2019年11月、父が旅立ちました。
その年のお盆まで寿司を握っていた父は、残された時間、精一杯のことを教えてくれました。
23年間、父の背中を見て、寿司も握らせてもらっていましたが、1人になった時は正直戸惑いました。
でも、前を向くだけ。
父の寿司を毎日食べてきたのだから大丈夫だ。
自分の舌を信じよう。
そう思って楽山の看板を背負い、私は新しい一歩を踏み出しました。
父がユニフォームのように着ていた「俺の寿司は旨い」と書いてあるTシャツは、いつも私
の目の前にあります。私も父のようにただただ、これからも美味しい料理を作るだけです。
今、大好きな尾崎が語っていた「つまらない大人」にはなっていない自信はあります。
でも、やりたいこともできることも、まだ山ほどあります。
これからもぶれずに楽しく、なにより「おいしいもの」を提供していきたいです。 そしていつか「仕事は料理人です」ではなく「仕事は楽山です」と胸を張って言うことが、私の目標です。
■資格など

・調理師免許取得
・ふぐ調理師免許
・すし料理専門調理師・調理技能士
・愛知県すし商生活衛生同業組合/PR・IT対策部長
・同、青年部副部長

■プライベート

◆野球・競馬観戦

贔屓はもちろん中日ドラゴンズ。尊敬する野球選手は落合博満。
競馬は「馬が生まれて運ばれ、調教師に育てられ、ジョッキーとなり人を楽しませる」ということと、料理の「素材が収穫され、調理師が手を加え、人を喜ばせる」という点に、仕事の共通項を感じている。
一方で一口馬主も務めるほか、引退した競走馬の支援活動も行っている。

◆読書と執筆

時間さえあれば、仕事のヒントになる本を読んでいる。
さらには執筆活動にも力を入れ、10年前PRのために始めたブログは、3日以上開けることなく毎日更新し、2021年中には5,000本を達成予定。
そのほか「桃森宏叉」の名で短編小説の執筆も行い、寿司組合の新聞にはコラムを連載中。

◆音楽活動

学生時代のギターは現在も趣味として楽しんでおり、ギターは4本所持。
好きなアーティストは尾崎豊、浜田省吾、斉藤和義など。
楽山ロゴ

こだわり寿司と日本料理

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